友達は欲しい、けど100人もいらない

初投稿。特にこれといったきっかけはないんですがブログを始めてみる。おそらく中学生の頃、Amebaが流行って以来。あのときは確か「徒然なるまま」とかそんなタイトル(今思うと恥ずかしくて死ねる)で、友達と近所のお好み焼き屋でもんじゃを食べたことを書いていた。わかる人にはわかる、店外に置かれた道頓堀の狸の写真付きで。

 

ただ文章を書きたいから、頭に浮かんだ言葉や思考を垂れ流したいから書く。あとで読むと恥ずかしいんだろうけど、誰かが言った、言ってないかもしれない「書かずにはいられない」という言葉が近頃、強迫的に迫ってくる。好きな映画やドラマ、マンガの話題が多くなりそうだけど、特にルールを設けず、思い付いたことを書きたいように書くつもり。

 

頭にブログを始めたきっかけはないと書いたが、実はある。2018年の半ばに2年付き合い、そのあいだ1年半ほど同棲していた人と別れたこと。最後は散々な別れ方だったこと。相手が「強くなりたい(から別れる)」と言っていたこと。そのほか精神的に喰らってしまい、まさに厄年としか言えない2018年を過ごしたこと。

 

彼女は確かに弱い、というか世界に対して優しすぎて生きづらさを感じている人だった。僕が勝手に思い込んでいただけかもしれないが、そういった一面がとても好きで、彼女が参ってるときに、彼女が生きている世界を、社会を肯定して付き合っていたつもりだった。確かにそれは依存的で、はたから見たら、ただのメンヘラを慰める、その場しのぎのダメ男という構図なんだけど。

 

でも2人の関係を自ら「よくあること」とくくるのは、もう他人に任せておけばいいし、周りの大人が「俺も昔はね」から始めようとする体のいい慰めも聞く気にならず。自分から笑い話にするには、それほど回復していない。「強くなってどうすんの」とは言ったけど、これは強くなることをあきらめた自分が強くなろうとしている人の足を引っ張る行為でしかなく。

 

だから彼女が言っていた「強い人にはルールがある」という、もはや「人生哲学」と言い換えられそうな言葉を実践してみることにした。そして去年の8月頃に新潮文庫から出ているマイブック2018を、すでに本の半分には価値がない遅すぎる日記帳を買い、呪いを吐き出し始めた。

 

これが毎日続けようとすると、案外難しい。何かしらを生み出す人たちって、そうせざるを得ないから、そうしてるわけで。24年も何も考えず呑気に生きてきた自分には日記に書く言葉も見つからない。だから見たもの、食べたものを書くんだけど、2カ月も続かない。自分の汚い字を見るのも嫌だし、漢字も絶望的に書けないし。

 

強くなるのムズッ!と痛感。でもなんかルールを守るという形から入る本末転倒的な不純なスタートでも、強くなれないことは認めたくないのでブログを始めた。2019年になって、森田童子の「たとえばぼくが死んだら」を聴くと無条件で自己憐憫に陥ってしまう状態からはようやく抜け出した。自己憐憫には時々陥るが。

 

別にこれを読む人はいないだろうということで、恥ずかしいことを一番最初に書いてしまった。ブログのタイトルは、このアプリをダウンロードしたとき目に入った、とよ田みのる友達100人できるかな」から拝借している。「徒然なるままに」の頃と変わらない、厨二的なワードセンス。友達100人は欲しくないけど、愛の存在を証明しようとした主人公と希望と絶望をないまぜにしたタイトルにあやかろうと思う。

 

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